written by ジャックナイフ E-mail:njacknife@aol.com
偶然、造船王グリーンリーフと知り合ったトム・リプリー(マット・デイモン)は、イタリアにいる彼の放蕩息子ディッキー(ジュード・ロウ)を連れ戻すよう依頼をうけます。イタリアの田舎町に着いたトムは、昔の学友だと偽ってディッキーに接近します。そして、意気投合した二人は、一緒に過ごすようになります。金持ちのボンボンだけど、美しい恋人もいて、いかにも上流階級という感じのディッキーは、トムにとっては憧れの対象でもありました。トムは一度はあんなふうになってみたいとマジで考え始めます。彼のもとで、優雅な日々を送るトムですが、そのうちに、ディッキーの興味がトムから他のもの移っていきます。何だか、トムにまとわりつかれているような気分になるディッキーですが、それがとんでもない事件への布石となっていくのです。
「太陽がいっぱい」のリメイクだそうですが、幸か不幸か私は「太陽がいっぱい」を観たことがないし、原作を読んだこともないもので、まるで新作としてスクリーンにのぞみました。オープニングから、登場するマット・デイモンが、黒ブチ眼鏡をかけたパッとしないキャラクターでしたので、「ふーん、こいつがアラン・ドロンの後釜なのかいな?」と疑問に感じたのですが、この後の展開で、このマット・デイモンが色々と化けるのですよ。そして、なるほど彼ならではの、トム・リプリーになっていると感心したのでした。
トムの特技は、ピアノ、そして人を真似ること、声色も真似るし、サインも真似る、ただそんなことが普通のシチュエーションでは大して役に立つわけもないのですが、この映画では、そんなトムの才能が悲劇へ向けての大きなカギとなっています。脚本・監督のアンソニー・ミンゲラは、トムも含めて登場人物の全てにかなり念入りなキャラクターつけを行っていて、単なる犯罪ミステリーにもなってしまう設定を、重厚な人間ドラマに仕上げることに成功しました。
トムとディッキーの間には、どうにもならない生まれと育ちの差があります。トムが下層の人間なら、ディッキーは上流のハイソなぼっちゃんで、そこにある徹底した溝はどうにも埋まらないのです。単に憧れの対象でしたら、それ以上、トムはディッキーに肉薄することもなかったでしょうが、ここでホモセクシャルの要素を盛り込むことで、その溝がかなり埋まってしまうのです。トムの持つディッキーへの想いの中に明かに一種の恋慕の情が入ってくるあたりで、ドラマに不気味な影が指してきます。最初は、明白だった身分の差に、恋慕や嫉妬といった感情が入ってくることで、そのバランスが崩れていくのです。ホモセクシャルをかなり前面に出してきているのは、今風のドラマだからかもしれませんが、このホモセクシャルの部分が、前半では事件への呼び水となり、後半ではある種の救いともなってくるあたりの構成はなかなかに見事です。絵に描いた二枚目ディッキーを演じたジュード・ロウのキャラクターが、主人公の心を揺さぶるあたりはかなりの説得力がありましたもの。そして、普通なら、横恋慕の対象となるべき、ディッキーの婚約者マージ(グウィネス・パルトロウ)の存在感の薄さもどうも計算ずくのようです。今回のパルトロウは、カリスマ的な魅力を持つディッキーの付随物のようなポジションに甘んじていますが、それもトムとディッキーの関係を際立たせるうまい設定と言えましょう。なぜ、トムと彼女が親密にならないのだろうと思っていると、後半で、ドラマ的な必然がそこにあったことがわかってきまして、「うーん、うまいね」と思ってしまいました。
その一方で、さらに脇に登場する、二人の助演陣が強烈な印象を残します。ディッキーの友人を演じたフィリップ・セイモア・ホフマンは、何だか自堕落な奴だと思っていると、なかなかに頭の切れる男で、よからぬことを企んでいるらしい主人公に疑惑の目を向けるあたりが中盤の見せ場になっています。また、出番は少ないながら、「エリザベス」のケイト・ブランシェットが演じたメレディスも相当強い印象を残します。彼女は、トムの嘘を真に受けて、トムをディッキーだと信じこみ、そして彼を愛してしまう女性を、繊細に演じきりました。パルトロウがこの映画の中でヒロインとして機能していないので、ブランシェットの悲恋が際立ちました。「恋に落ちたシェイクスピア」対「エリザベス」と去年のオスカー対決の二人の競演となったこの映画ですが、ブランシェットがうまく脇に回っておいしいところをさらってしまったという印象です。でも、このキャスティングが逆だったら、ドラマとしては成立しなかっただろうと思います。
ジョン・シールの撮影はオープニング部分で時代(1950年代)のカラーを出していますが、段々とドラマが佳境になってくると、陰影の深い奥行きのある画面作りをしています。また、ガブリエル・ヤードの音楽は、ドラマの中ではジャズが重要なアイテムになっているものの、ドラマチックな部分は重厚なオーケストラをたっぷりと聞かせてくれています。
自分が誰か他の人になりたいと思うこと、それがこの映画のメインのテーマになっています。でも、他人になって何かをしたいから、他人になりたいと思うのが普通でしょう。他人になりかわるというのは、手段であって目的ではないはずです。ところが、トムはその目的を見失います、後は手段を遂行することに、引きずられて、自ら傷口を広げていってしまいます。トム・リプリーとは誰なのか、自分が誰であるかということに執着してしまった人間の悲劇があるように思えるのです。普段は、自分が誰であるかなんて意識することはありません。だって自分は自分なんですから、そんなこと考える必要はないのです。ところが何かの拍子に頭をよぎる「オレは誰だ」という疑問、でも、それに答えはないのです。答えの出ない疑問に対して、できることは、「自分が誰か」ということから逃げつづけるしかないのではないか、そんなことを考えさせる結末になっていました。
お薦め度 | ×△○◎ | キャスティングのうまさが光る一品。 |
採点 | ★★★★ (8/10) | 演技陣、演出、映像の厚みが見応え十分のドラマ。 |
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