ソフィーのせかい
Sophie's World


2000年10月15日 神奈川 関内アカデミー1 にて
哲学のお勉強の時間です、美少女も一緒だよ。


written by ジャックナイフ
E-mail:njacknife@aol.com


14歳のソフィーのもとに不思議な手紙がとどきます。「あなたは誰?」そして続いて「世界はどこから?」という手紙も。普通の人なら、「バカでないの」と相手にしないところをソフィーちゃんはその質問をマジメに考え出します。すると彼女の前にアルベルトという変なオヤジが現れて、ソフィーに歴史のレクチャーを始めて、彼女は様々な歴史の中で自分の存在の意味を探し始めるのです。でも、なぜソフィーにそんなことが起こるのかしらん?実はアルベルトは少佐という人物に操られていたのです。

ベストセラーの映画化でして、ノルウェーの映画だそうです。私はこの原作は読んだことがなく、まるで予備知識がないまま映画に臨みました。この映画の性格上、ここから先は途中までのネタばれを含みますので、ご覧になる予定のある方はパスして下さい。

哲学のお勉強のとっかかりとしては「あなたは誰?」ってのは基本かもしれません。そこで自分はこれこれこうですとスラスラと答えられる人はそうはいないでしょう。1度は「うっ」と言葉を飲みこんでしまうのではないのでしょうか。だって自分は自分だもんと思いますけど、それを答えだと口に出すのをはばかられるような妙な威圧感がある質問です。でも、それを本気で考え出したとき、どこから考え始めたらいいのかわからないのですが、この映画はそれを考える時のとっかかりとしては面白いものがあります。ソクラテスの弁明から始まって、中世からルネサンス、ヘーゲルやらキルケゴールやらが登場し、フランス革命やロシア革命という時代の流れの中で、自分の存在についてソフィーは疑問を抱きはじめるのです。

そして、その疑問は現実のものとなってきます。ソフィーとアルベルトは少佐という男が娘のために書いている物語の登場人物だというのです。つまり自我はあるけど存在しない、実体のない人間なんです。オープニングで語られる「鳥はものを考えないけど、人間は考える」という言葉がここで生きてきます。ソフィーもアルベルトも人間とは言えないけど、考えるし、感じるし、そして他人のことを思いやることもできるのです。物語の中に人間って実体がないのに存在してるらしいのです。

とはいえ、この物語は、作者と娘の間にだけ成り立っているお話です。別に他の誰に読まれるわけでもない、娘のための寓話です。そんな話の登場人物が存在するといえるのでしょうか。もしそうなら、日記の中の自分は、書いてる自分とは別に存在することになりますし、この物語にも登場する歴史上の人物は、実在した人物とは別に、物語の登場人物として存在していることになります。存在というのは、こうして考えると誠に脆弱な基盤の上に成り立つことになります。もしも、ソフィーのように物語の中の登場人物が自我を持ち得るのであれば、この私も誰かの物語の中の一部かもしれないのです。そんなことはない、自分は実在する人間だと、単に信じこんでいるだけ、その実際は誰かの物語の住人かもしれませんし、アドベンチャーゲームの登場人物の一人かもしれないのです。

そう考えるとこの物語は人間の存在なんて、実はものすごく怪しいといいたげに見えます。ソフィーは誰かからの「あなたは誰?」という問いに対して、自分の存在を見出そうとし始めますが、普段の我々が日常生活の中で「私は誰?」なんて考えることは、まずないでしょう。ですから、自分の存在がどの程度のものなのかは知らないまま一生を終えることになるのが普通です。時々、ヒマなのか気になっちゃったのか、そういうことを専門に考える哲学者なる連中もいることはいるのですが、私たちにとって、彼らの言葉は、単に解釈の遊び、言葉の定義をさも勿体つけてやっているようにしか見えない事があります。

さて、この映画は哲学者の仕事をそれ以上の値打ちがあると示してくれると、私にとっての発見となるのですが、結局そうはなりませんでした。ソフィーとアルベルトが作者とその娘とにどう関わっていくのか、作者の物語の終わりと共に二人とも消えてしまうのか、それは本編をご覧になって確認して下さい。でも、結局は、一度生まれたものが存在し続けて、それが永遠の命を持ちうるらしいというのは、素晴らしいように見えて何だか安直です。例えば、実在する人間はせいぜい持って100年の命です。でも、死後もその人の存在は記憶として人々の間に残り、さらには、その先の未来に語り継がれていくこともあるでしょう。それを永遠の命と呼ぶには無理がありそうです。だって当人は死んじゃっているからです。

ところがこの映画は、死んだ実在の人間も誰かの物語の中で永遠の命を得るようなのです。ギリシャ時代に実在したソクラテスと、この映画に登場するソクラテスは明かに別物なんですが、この映画に登場するソクラテスは現代の人間が想定するソクラテスなんです。彼の存在は、過去の事実なのでしょうか、それとも今の我々のコモンセンスが認めるところの過去にいたらしい有名人の一人ということになるのでしょうか。この映画はこれを後者のようだと言っているようです。

でも、物語の登場人物というのは、作者から観た場合と、読者から観た場合とで相違が出ることはありましょう。そうなると人の数だけ、登場人物も存在することになります。歴史上の人物もその歴史の本を読む人によって異なる存在のし方をし、キャラクターも異なってくるのではないかしら。結局、存在というのは主観の産物であって、その存在の仕方も主観の数だけバリエーションがあるということにならないでしょうか。

てなことを考えてしまったのは、この映画の結末がそんな感じなんです。折角、存在についての始まりと終わりを見せてくれるのかと思ったら、なぜか唐突に永遠の存在が登場してくるのです。このあたりは本編をご覧になって確認していただきたいのですが、人が死んで空の星になるのなら、夜空は星だらけでまぶしくて仕方ないという展開は、個人的には無理があるように思えてしまったのでした。(このあたりはご覧になってない方には何のことかちんぷんかんぷんですね、筆力のなさをご容赦下さい。)

湖のあばら屋、ルネッサンス時代のセット、空間を超えるSFXなど、視覚的な見せ場は満載でして、タイムトラベルシーンは、かなり手間と金のかかった仕事になっています。また、ヒロインのソフィーを演じたシルイェ・ストルステインがなかなかの美少女ぶりで、自分が他人の物語の登場人物とわかってから、何とかして自分を取り戻そうとするあたりの頑張りが泣かせます。


お薦め度×ベストセラーの原作を知らない私でも楽しめました。
採点★★★
(6/10)
でもあの結末は納得できないなあ、原作もそうなの?

夢inシアター
みてある記