written by ジャックナイフ E-mail:njacknife@aol.com
嵐の夜、道路は寸断され、あるモーテルに否応なく集められた人々。事故で母親を跳ねられた家族連れ、その跳ねた男(ジョン・キューザック)と女優、娼婦(アマンダ・ピート)に若いカップル、護送中の囚人と刑事(レイ・リオッタ)。そして、まず女優の首が洗濯室で発見され、どうやらこの付近に猟奇殺人鬼がいるらしいのです。犯人は誰なのか。嵐の夜はふけていき、モーテルの面々も擬人暗鬼にかられていきます。そして、さらに犠牲者が。一体このモーテルにはどんな秘密が隠されているのでしょうか。
オープニングは何やら、尋問のような精神科医のカウンセリングのようなシーンで始まります。言ってることがどこかおかしい、ああ、これはサイコもののスリラーだなという前ふりになっています。そして、場面は嵐の夜、次々に事情を持った車があるモーテルに集まってくるシーンへとつながります。もう、このあたりで、密室型サイコスリラーだなと観客にはわかってくる仕掛けになってまして、こういうジャンルは初めてというジェームズ・マンゴールドの演出はスリラーの定番を手堅く積み重ねて不安を煽ることに成功しています。
この先は映画の核心に触れますので、ご注意下さい。
特に前半はじらしショックやら、無音状態によるテンション上げといった、B級ショッカーの定番も入れて、いかにも連続殺人もの、それもB級っぽさ一杯の映画という作りにしています。だから、誰が犯人かをずっと追っていくことになります。ところがそのドラマに時々変なシーンがインサートされます。どこかの裁判所なのか、そこへ殺人犯を連れてくるというエピソードが挿入されるのです。それが、嵐の夜から見て、同時進行なのか、過去のことなのかも不明なので、これが連続殺人にどう絡んでくるのかが、なかなか見えてきません。サスペンス慣れした人は冒頭でこの映画のカラクリに気付いたと書いてますけど、私は中盤過ぎるまで、その仕掛けには気付きませんでした。この映画はその仕掛けがまずあって、そこへ物語を肉付けしていったような作りになっています。連続殺人もののように見せること自体が、その仕掛けを隠すためのミスディレクションだったというあたりは、やられた、という気分になりました。
しかし、その仕掛けが、嵐の夜の物語全てにかかっているというのは、その仕掛けが割れた途端に物語が一気にガタガタになってしまう危険性がありました。脚本は、種明かしを徐々に見せることで、一気にどんでん返しというスタイルを巧妙に避けています。そして、その後も物語をつなぐことによって、映画として、種明かしとは別の結末をつけようとしています。ただ、残念ながら、その工夫もうまく機能していないようでして、全てを狂気の中に押し込めた後、そこにまた論理的なサスペンスを盛り込もうというのは無理があったようです。狂人の頭の中に無理やりゲームの規則を持ち込んだようなエピローグは蛇足だったようです。ラストで、別の伏線もあったことがわかるんですが、その前のメインの仕掛けの種明かしによって「このモーテルでは何でもありじゃん」という気分になってますので、「だから?」というリアクションにしかならないのです。だからといって、種明かしだけで映画を終わらせてしまうと、観客は置いてきぼりを食らってしまいますから、まあ仕方ないのかもしれません。アイデアは面白いのですが、映画としては料理しにくい題材だったように思えます。
そのアイデアを生かすためのモーテルでの連続殺人は、役者もクセのあるメンツをそろえてかなりドキドキハラハラさせることに成功しています。キューザックやリオッタにジョン・C・マッギンリー、さらにアマンダ・ピート、クレア・デュバル、レベッカ・デモーネイと、こういうスリラーにはお似合いの面々を揃え、暗くなり過ぎない画面設計がうまいフェドン・パパマイケルの撮影もあって、この役者と舞台で別の結末のドラマを見たいという気になりました。アラン・シルベストリの音楽は、純粋に不安とショックをつなげた音作りでして、物語の性格上、音楽で、仕掛けを語るわけにはいかなかったようです。
お薦め度 | ×△○◎ | 意外な仕掛けはうまいけど、後半はさばききれてないかな。 |
採点 | ★★★☆ (7/10) | しかし、これってミステリーの範疇に入るんだろうか。 |
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