written by ジャックナイフ E-mail:njacknife@aol.com
1990年のニューヨークはまだ治安が悪い時代です。救急車を運転する救命士フランク(ニコラス・ケイジ)はこのところ扱った患者の命を救えないのが重なっていてスランプ状態です。今日も心拍停止の男の家に駆けつけますが、これがドタンバで心臓が動きだしました。病院へ運べばそこは修羅場状態で、患者の置き場もないありさま。男の娘メアリー(パトリシア・アークエット)と知り合ったフランクですが、彼のスランプは重症で、半年前に救えなかった娘の亡霊をあちこちに見るようになっています。酒に溺れるフランクですが、日々の仕事は否応なくやってきます。また今日も無線の指令で彼は病んだ街の人々を救いつづけるのです。
ポール・シュレーダー脚本、マーティン・スコセッシ監督という「タクシー・ドライバー」コンビが手がけた作品はまたしても舞台はニューヨーク、そしてドライバーが主人公ということまで同じです。ただ、運転する車がタクシーから救急車になった点が違いというところでしょうか。でも、今回の主人公はアメリカやニューヨークを象徴する存在ではなさそうです。
主人公のフランクは、救命士という自分の仕事にやりがいもプライドも持っているのですが、最近仕事がうまくいってません。別にその仕事自体に問題があるわけではないのですが、救命士という仕事とフランクはうまく折り合いがついていないようなのです。人の命を、それも緊急の処置を求める命を相手にする仕事ですから、ある時は、人命救助のヒーローになりますし、またある時は自分のミスで人を死に至らしめることだってあるでしょう。責任の重さに手をこまねいていることも許されない彼らのストレスは相当なものであることが察せられます。フランクの同僚たちは、いろいろな方法で、この仕事とそれなりの折り合いをつけて日々を送っています。それはクールな割り切りだったり、神への信仰だったり、暴力だったり様々ですが、フランクはそこがうまくできません。あくまで救命士という仕事の中で救いと平穏を求めようとしているようなのです。ところがそうはうまく行きません。救われるべき命は時として見捨てられ、またある時はヤクの売人なんてクズの命を救うために自分の体を張ることもあるのです。そんな矛盾は最後まで解決しません。フランクが最後に見つける心の平穏は劇場でご確認頂きたいのですが、その場所も一時的なとまり木でしかないように、私には見えてしまい、救いのなさが後味として残ってしまいました。
これは、救命士なんていう、ちょっと崇高な職業だけにあてはまる話ではありません。私のような三流サラリーマンだって、程度の差こそありますが、倫理観と仕事のジレンマに悩むこともありますし、スランプも多少のストレスもあります。それを人によってはフランクのようにアルコールで忘れようとするでしょうし、妙なドラッグに手を出すことだってあるかもしれません。現実に正面から立ち向かうことができないときに、他のものに逃避したり、転化してしまうことは私レベルの人間でもよくやっています。そう思ってみると、この映画のフランクは他人事とは思えなくなってきます。そして、すくなくとも成功時に得られる満足の度合いからすれば、フランクの方が幸せかもしれないとも思ってしまいます。
とはいえ、人の生死に立ち合うことのしんどさ、ストレスから考えれば、成功時の栄光は光輝くものでなければ、やっていけないでしょう。そうでなければ、仕事以外のところから別の満足や栄光を得るのでないと、身がもちませんもの。そう考えると、警察官や医者のワイロとか、汚職といったものは、ひょっとしたら必要悪なのかもしれないという気がしてきました。救命士、消防士、自衛隊、警察官、こういう汚れ仕事をしてくれている人々に対する報酬や、我々の払う敬意が、その仕事に十分に報いるものであるのかどうかというところに思いが至ってしまったのです。最近の、警察官や自衛官の不祥事がマスコミを賑わわせていますが、この中で本当に糾弾すべきものと、必要悪として容認しておいてもよいものがごっちゃになっているような気がしていたのですが、この映画を観て、さらにその思いを強くすることになりました。
シネスコの画面で淡い色使いを見せたロバート・リチャードソンのキャメラは、「タクシー・ドライバー」の幻想的な絵作りを思い出させるものがあって興味深いものがありました。また、オリジナルスコア部分を名匠エルマー・バーンスタインが担当してますが、小編成オーケストラの音が主人公の心理を描写する部分にだけ、本当に必要最低限に使われていて、却って印象が強いものとなりました。
お薦め度 | ×△○◎ | 毎日そんなに悩んでいたら体持たないですよ。 |
採点 | ★★★☆ (7/10) | 重いです。も少し救いがあってもいいような。 |
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