written by ジャックナイフ E-mail:njacknife@aol.com
ハービー・ピーカー(ポール・ジアマッティ)は病院の書類係をやっている冴えない中年男。ジャズが趣味でそのつながりで、アングラコミックのスター、ロバート・グラムと知り合いになります。ハービーが自分の生活を元にコミックの原作を書き始めたところ、最初は見向きもされなかったのが、徐々にその存在を世間に知らしめ、その世界ではかなりの有名人となります。コミックが縁で3度目の結婚もし、テレビにも出たりするのですが、それでも生活は楽にはならず、相変わらず病院の書類係を続けることになります。妻と折りあいが悪くなったり、ガンに侵されたりと、あまりいい事のない人生をさらにコミックにして、彼を自分の存在を人に知らしめていきます。そんな彼も意外と幸せそうに見えたりするんですよねえ。
正直申しまして、アメリカのアングラコミックがどの程度の社会的地位にあって、どの程度の影響力を持っているのかは、よく存じ上げないのですが、もともと子供向けのコミックに大人の鑑賞に耐える題材を持ち込んだ一人がこの映画の主人公ハービー・ピーカーだったようです。その男の半生を描くにあたって、ハービー役にポール・ジアマッティをキャスティングしてドラマを演じさせるのみならず、ハービーや奥さん本人まで、連れてきて、ナレーションをさせ、インタビューまで映画の中に織り込んでいます。さらに、時には、コミックの画面そのものが実写の中に挿入されるといった視覚効果も使って、虚実織り混ぜたような作りにしながら、実はハービー・ピーカーに深く突っ込んで語っているというドラマです。
もともと「アメリカン・スプレンダー」なるコミックの主人公は彼自身であり、彼の周囲にいる実在の人々が登場人物として描かれています。そして、日々の鬱屈とした想いや、瑣末な事件が取り上げられているのです。なるほど、私小説というかエッセイというか、今ではこういうマンガは日本でもよく見かけられますが、そういうマンガの元祖みたいなところがあるようです。この映画では、そのコミック作家の苦労話ではなくて、その生きてきたプライベートな部分を描いています。でも、それはもともとハービーが自分のコミックの中で、コミックという道具(作画は別の人)を通して客観的に描かれてきたもので、それをもう一度映画という舞台でやろうというのは、かなり挑戦的と言えましょう。ところが、映画はコミック的な手法をあえて取り込み、映像のドラマチックな部分を極力押さえているのが意外でした。本人をカメラの前へ引きずり出すというのも、既にテレビがやっていることですし、役者を使ってポールを演じさせるというのも、作画家がポールのキャラクターを作ることと大差ないわけです。でも、原作コミックを読んでない私には大変面白い映画となりました。
ハービー・ピーカーという男が見た目はよくないし、人間的にもそれほどのもんじゃないというは、すぐにわかってきます。でも、どこか憎めないところがあります。それは、並の人である自分との共通点を感じるからです。そして、彼が日常に思っていることに共感できるということです。とはいえ、結構きれいな奥さんをもらうし、定職を持っているし、コミック以外にジャズという趣味を持っているので、そんじょそこらのダメ男よりはかなりマシなんですよね。これより下はまだいるぞという気もしますもの。後半、ガンの化学療法のシーンでも彼を励ます家族が登場するあたりは、ちょっとうらやましい気分になりましたもの。ラストも、色々と山谷はあるけど、結構幸せだよねという見せ方なのです。リアルな現実を描いた大人向けコミックの世界の映画化なのに、雰囲気はコミカルで後味は暖かいです。同じコミックでも先日観た「スパイダーマン2」のこれでもかという不幸のつるべ打ちに比べると、どっちがファンタジーでどっちがリアリティなのかと思ってしまいます。現実はきびしいけど、それをリアルに描くとそこから人間の強さしぶとさが見えてくるのでしょうか。に、しても、この映画に描かれるハービーや彼を取り巻く人々は結構幸せそうなんですよ。映画「オタク(ナーズ)の逆襲」をネタに、マジで口論できる幸せってのが、この映画では描かれているのです。
映画の後半で、ポール・ジアマッティ演じるハービーによるモノローグがあるのですが、そこで語られる、自分の存在の危うさというものが印象的でした。自分のことをネタにコミックにしまくってきたハービーなんですが、その奥底に自分の存在の曖昧さについての不安があったようです。コミックの自分と、今ここにいる自分と、どちらがリアリティなのか。他人から見た自分をリアリティだとしても、他人の認識する自分は、ハービー・ピーカーという記号でしかないのではないか? ひょっとして、これはハービーよりは映画の作り手(脚本と監督は、シャリ・スプリンガー・バーマンとロバート・プルチーニの夫婦コンビ)たちの想いなのかもしれません。客観的に虚像と実像の一線を引くというのは難しいことです。その一線は本人にしか引くことができないのではないでしょうか。意識的に虚像(コミックでも小説でも映画でも)を作っていまったら、そこから実像の自分を取り出すのは本人以外にはできないってことを語っているように思います。メディア(手段)を使って、自分を表現し始めると、そのメディアの中の自分が一人歩きを始めて、実像である自分の存在は自分が声を上げないと誰にもわからなくなってしまうのです。
だからこそ、作者自身を主人公とするコミックを題材した映画を作るにあたって、本人を引っ張り出してくる必要があったのでしょう。映画のラストは、ドキュメンタリー風の見せ方をしていますが、これも、どうしたら、ハービー・ピーカーの実像に迫ることができるのかの苦労の表れではないかしら。虚実が織り交ざれば、全部が虚像に見えてくる、その中から実像をすくい上げるってのは、かなり難しい仕事でしょうから。
役者は、皆素晴らしく、ハービーを演じたポール・ジアマッティは、いつもの曲者ぶりを押さえ込んで、一緒に登場する本人と同化することに成功しています。妻アリスを演じたホープ・デイヴィスも同様に見事でした。この人は、「ワンダーランド駅で」「アバウト・シュミット」「アトランティスのこころ」などで、まるで別人のような演技を見せてくれてきましたが、この映画でも、病気オタクな変な奴をリアルに演じきってくれました。今後の活躍(と、いっても貴重なバイプレーヤーとして)が大変楽しみな女優さんです。
ジャズ、アメリカンコミック、60年代から70年代のアメリカ文化の素養があると、より楽しめる映画なのかもしれませんが、その辺の下地のない私でも十分に楽しめましたから、結構オススメの一本です。それは、きっと、人間の弱さとしぶとさを共感の持てる形で描いているからではないかと思った次第です。
お薦め度 | ×△○◎ | 本人も出てきて虚実取り混ぜたドラマは意外と暖かい後味。 |
採点 | ★★★☆ (7/10) | 多くの人に存在を知られ、愛する家族のいる彼は、平凡でも不幸でもないぞ。 |
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