美少女ポスターにご注意、中身は極限の大悲恋ロマンです。
国の文化大革命時代、下放政策でまだ幼さの残るシュウシュウ(ルールー)も、家族と離れて、友達と一緒に成都からチベットの山岳地帯に送り出されます。そこで、彼女は牧畜を習うという名目で、ラオジン(ロプサン)という中年の男と一緒にテントで暮らす羽目になります。昔のケンカの後、男の印を失ったというこの男は無口で変わり者ながら、何くれとなくシュウシュウの面倒を見てくれます。そのやさしさに彼女も好感を抱くようになるうち、彼女が本部へ戻る日が来ます。ところが迎えは来ません。文革の終了後、彼女は忘れられた存在になってしまったのです。しかし、勝手に故郷に戻ることは許されておらず、共産党の許可証がなければ帰れないのです。金もコネもないシュウシュウは、その許可証を得るための手段として自らの体を使います。「目的のためには誰とでも寝るふしだらな女」と呼ばれるシュウシュウ、男たちに抱かれる彼女を同じテントの中で黙って見るしかないラオジン、この二人を待つ結末とは......。
ストエンペラー」から「ジャッジ・ドレッド」まで色々なジャンルの映画に出演し、ハリウッドで活躍する女優ジョアン・チェンの初監督作品です。1966年に始まった文化大革命は1977年まで続いたそうですが、その末期1975年に下放政策でチベットの農村に送られた少女の数奇な運命を描いた物語で、原作者のヤン・ゲリンとチェンが共同で脚本を書き、アメリカの資本で製作され、中国で無許可ロケを敢行して、アメリカで仕上げたのだそうです。
語は、一人の少女の物語としても、ラブストーリーとしても残酷とも思えるほどハードです。国の政策として農村に送られた都会の少女が、その送られた先で取り残されてしまう、そして、党の許可証がなければ帰れない、勝手に帰っても仕事にもつけず送り返されるかもしれない、ところがコネも金もない仕立て屋の娘は許可証をもらうこともできそうにない、そして、帰りたい彼女ができることは、許可証へつながりそうな人間に片っ端から自分の体を与えることだったのです。ヒロインを演じるルールーが幼さを残した少女だけにその痛々しさが観る者の胸をしめつけます。
に観ていて辛いのは、ヒロインが堕胎のために里に降りたとき、彼女が「誰とでも寝る女」の烙印を押されていて、落ちるところまで落ちた女として扱われていることです。病室までも男が彼女を抱きに来る、そんな彼女をかばう大人は誰一人いません、ただ無口な変わり者のラオジンだけが彼女をじっと見守るのみです。日本でも終戦当時、家族を食べさせるために身を売って、世間からパンパンと後ろ指をさされた女性がいたのですが、世間というのは、虐げられた人にさらに容赦ない仕打ちをするものだと痛感させられます。
して、家へ帰りたいと思うヒロインを、ずっと寡黙に見守り続けるラオジンの存在感が圧倒的です。彼女に対して自分の感情をほとんど出さず、男に抱かれたシュウシュウが体を洗うために欲しがる水を汲むために、川まで馬を走らせる彼の姿は、痛々しいほどの愛に満ちています。ラオジンのシュウシュウへの想いは正面きって伝えられることはないのですが、最後の最後でその想いにシュウシュウが笑顔で応えるところが圧巻でした。感動以前に打ちのめされるラストは、劇場でご確認下さい。
は歴史にくわしくないので、このシュウシュウのような目に遭った女性が本当にいたのかどうかはよくわからないのですが、文化大革命の下放政策は本で読んだくらいの知識はあります。やはり、同じ時期を扱った「レッド・バイオリン」という映画がありましたが、都会では様々な粛清が行われた時代だったようです。そして、その末期に農村に送られた少年少女の中には、文革後のどさくさで故郷に帰ることができなかった人たちもいたのかもしれません。弱いものがひどい目に遭うのは世界中どこも同じなのでしょう。
んな残酷とも言えるドラマですが、映像の美しさは素晴らしかったです。実際にチベットの草原地帯にロケをしたそうですが、空、雲、そして緑の美しさが悲恋ドラマの舞台として映えました。また、ジョニー・チェンによる音楽は悲劇と呼ぶにはやさしさと慈愛に満ちたサウンドになっています。オーケストラによる重厚な音は時として前に出過ぎの感もなきにしもあらずでしたが、それでも美しいテーマが聞き物です。
ジャックナイフ
64512175@people.or.jp
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甘くないです、覚悟して見てくださいね。
ここまで寡黙なヒーローは珍しい。
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