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Illuminata
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舞台の楽屋裏話かと思っていたらラブストーリーになっちゃいました。
る劇場の座付きの作家トゥッチオ(ジョン・タトゥーロ)は自分の作品を上演してもらえなくてじりじりしています。ある日カヴァルリア・ルスティカーナの上演中、主演俳優が倒れたのを好機とばかりに、観客に自分の芝居をやると宣言してしまいます。ところがそこで強引に上演した舞台「イルミナータ」は今イチ評判がよくありませんでした。そして、劇場主はこんなのやめて「人形の家」を上演しようと言い出します。看板女優のレイチェル(キャサリン・ボロヴィッツ)は愛するトゥッチオのために劇場と交渉しますが、その心も知らず大女優セリメン(スーザン・サランドン)の色香に屈しようとしていたのでした。
ートン・フィンク」「クイズ・ショウ」「遥かなる帰郷」などで知られるジョン・タトゥーロが共同脚本・共同製作・監督・主演を手がけた作品です。舞台と、その歴史についての知識のある人には、興味深い世界なのかもしれませんが、そのあたりの下地のない私のような人間には、舞台の内幕ものというよりは、「イルミナータ」を中心にした集団ドラマという印象でした。「イルミナータ」というのは、妻のある男が若い愛人を作り、その愛人を自分の家に招待してしまう、しかし、結局男は愛人を捨て、妻のもとへ戻り、妻は男を受け入れるという物語です。この物語がドラマの展開の中で、少しずつ変わっていくというのが主眼です。
の一方で集団ドラマのメインとなるのは、「イルミナータ」初演の次の日の夜のドタバタとなります。これがセックス絡みのエピソードが並行して描かれるというもので、「みだらな人々」という邦題の所以がここにあります。女劇場主は道化との情事にふけり、その夫はデブ巨乳に顔をうずめ、若い女優は二枚目俳優のベッドに潜り込み、別の男優はホモの評論家を訪問して貞操の危機、トゥッチオはセリメンと一線を越える寸前です。タトゥーロの演出は各々のエピソードへ話が何度も飛んでいくのでちょっと落ち着きのないという印象を持ってしまいました。
して、その次の日、「イルミナータ」をもう一度上演しようということになったのですが、トゥッチオが大女優セリメンの愛人に成り下がったというウワサが流れて、劇場主を始め、劇場中のみんなが大騒ぎです。このあたりから、レイチェルとトゥッチオの愛のドラマに物語が収束してきます。そして、二人の愛の物語が「イルミナータ」の結末に真実の輝きを与えるということになるのですが、このあたりが急転直下の展開という印象でした。全てのエピソードを均等にさばいた結果なのかもしれませんが、今イチをめりはりを欠いたような印象を持ってしまいました。
性的な役者陣にきちんと見せ場を与えて、集団ドラマとしての面白さは出たのですが、その分ドラマの核の部分が見えにくくなってしまったように思います。何しろ、スーザン・サランドン、ベン・ギャザラ、ビル・アーウィン、クリストファー・ウォーケン、ビバリー・ダンジェロといった達者な面々を揃えているだけに、彼らに見せ場を割り振った結果なのかもしれません。中でもクリストファー・ウォーケンはまともな役をやったことがない人ですが、最近はこのゲイの評論家といい、「マウス・ハント」のネズミハンターとかコミカルな役どころが増えてきたようです。でもマトモな人にならないのは同じことのようです。一番マトモだったのは「アンツ」の副官の声じゃなかったかなあって気がしますもの。主演のジョン・タトゥーロも「バートン・フィンク」や「クイズ・ショウ」の印象が強くて、いつ壊れるのかと思っていたら、最後まで二枚目のままなのでちょっとビックリでした。
かし、舞台関係者って何でもかんでも戯曲のセリフでものを言うのでしょうか。この映画に出てくる連中もやたらと戯曲からの引用でものをしゃべるのですが、言いたいことは自分の言葉でしゃべればいいのにというのは部外者の発想なのでしょうか。いわゆる仲間うちの符丁みたいなものなのかなあ。それを知ってる人が知らない人を見下して優越感にひたろうって魂胆じゃないかって気がしてしまいます。さらに現実を舞台の世界に投射してものを考える、現実逃避のテクニックかなとも思ってしまうのです。確かに名作の戯曲にある言葉は含蓄はあるし、韻としても美しいし、使い道はいっぱいあるとも思うのですが、自分の周りにそんな引用ばかりしている奴がいたら、ちょっとご勘弁の気分です。でも、自分が演劇関係者とお友達になったりしたら、そういう会話を当然のごとくするようになるのかなあ、うーむ。
ジャックナイフ
64512175@people.or.jp
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演劇ファンには結構楽しめる趣向があるの.....かな?
役者の顔ぶれの面白さもありです。
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