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Les Miserabkes
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波瀾万丈な展開に、主演二人が重厚に見せるドラマの見応え。
1999.2.14
神奈川 ワーナーマイカル茅ヶ崎シネマ3
にて |
みの罪で19年間牢獄にいたジャン・バルジャン(リーアム・ニーソン)は、仮釈放時に食事とベッドを与えてくれた神父の家から銀の食器を盗んで再び捕らわれてしまいます。しかし、神父はそれを彼に与えたのだと言ってさらに銀の燭台まで与えたのです。そして彼に新しい人間に生まれ変わるよう約束させました。それから9年後、ジャン・バルジャンはヴィゴーという町でタイル工場を経営する名士となり、その人望の厚さから市長の任を受けていたのです。そこへやってきた新任の警察署長ジャベール(ジェフリー・ラッシュ)は過去刑務所に勤めた時期があり、彼を見て逃走囚ジャン・バルジャンと気付きます。それから、ジェベールは徹底してジャン・バルジャンの正体を暴き追いつめようとするのですが、果たしてその結末や如何に。
クトル・ユーゴーの原作は、幼いころ子供用に翻訳されたものを読んだ記憶があるのですが、内容はまるで覚えていなくて、ミュージカルの方も未見とあって、まるっきり新しい物語としてこの映画に臨みました。神父から「新しい人間に生まれ変われ」と言われたジャン・バルジャンは、よき人として行動しようとするのですが、彼の過去を暴かんとするジャベールにより、市長の座を追われ、またしても逃亡者となってしまうのです。ある時点から徹底して善の人であるジャン・バルジャンに対して、徹底的に厳格な法の番人であろうとするジャベール、このジャベールの冷酷さは物語の中では徹底した敵役なのですが、それを単なる悪役にまでおとしめなかったところにこの映画の奥行きが出ました。主人公の二人は全編を通して愁嘆場を演じず、ほとんど表情を変えずに波瀾万丈のドラマを演じきりました。喜怒哀楽を表に出さない二人が時として見せる感情のゆらめきの瞬間が圧巻です。
語が展開するにつれて、フォンテーヌ(ユマ・サーマン)とその娘コゼット(クレア・デーンズ)の二人の女性がドラマの重要なキャラクターとして登場します。特にジャン・バルジャンとフォンテーヌの愛情のきらめく瞬間が印象的です。出会いは最悪、未来を語る時間もない二人の想いが切ない愛のドラマを運んできます。特に短いシーンながら二人が庭で食事するシーンの切なくも美しいこと、ここで泣かされてしまったのは私だけでしょうか。ピレ・アウグスト監督はユマ・サーマンを見事に美しく見せることに成功しています。
た、フォンテーヌの忘れ形見コゼットの見せ方も見事です。成長したコゼットのファーストショット(クレア・デーンズの登場シーン)で見せる生き生きとしたヒロインのイメージが素晴らしいと思いました。そして、ジャン・バルジャンのドラマとしてはサブ・プロットでしかない彼女が、クレア・デーンズという女優を得て、存在感のある美しさを見せるあたりが圧巻です。後半、展開が若干駆け足になる中で、彼女が登場するシーンで、ドラマが落ち着きを取り戻すように感じられたのも、その存在感あってのことでしょう。クレア・デーンズも、ユマ・サーマンも個人的には好みのタイプではないのですが、この映画では素晴らしい仕事をしていると思いました。
た、この映画は19世紀のフランスを舞台にしているのですが、そのセット、ロケの美しさ、また大規模な群衆シーンもあり、視覚的な見せ場も見逃せません。主な撮影はプラハの撮影所で行われたようで、エンドクレジットにいかにも北欧系らしい名前がたくさん登場します。そして、実際に残っている街並みによるロケも行われているようでして、クライマックス近くの将軍の国葬シーンなどは映画館で観るための画面になっています。また、ベイジル・ポレドゥリスの骨太な音楽がスケールの大きな物語を見事に支えています。重厚なオーケストラによる厚みのある音楽がドラマチックに鳴り響く一方、何度も繰り返されるテーマの切ないメロディが胸を打ちます。
の映画では、神への信仰というものの正の面を、前面に押し出しているのが印象的でした。最近は、オウム事件以来、宗教だ信仰だというと、胡散臭いイメージを持ってしまうことが多いのですが、この映画では、愛とか善の原動力として、神に対する信頼と敬意があるという描き方をしています。だからこそ、神父はジャン・バルジャンを赦し、ジャン・バルジャンは他人のために善を成すことができる、そんな想いが嫌みなく伝わってくる映画でもありました。
ジャックナイフ
64512175@people.or.jp
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ずっしり重いドラマを盛り上げた脚本・演出がお見事。
主役二人の腹芸に拍手。
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