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<出演>
※お断り 「1981年から1987年までに新宿コマ劇場で上演された榊原郁恵さんバージョン」を《郁》と省略させていただきます。 <あらすじ> ロンドンのダーリング家。夫妻はパーティーの準備で大忙し。華やかな雰囲気に興奮するウェンディ、ジョン、マイケルら子供たち。 夜も更けた頃、ピーターパンが、落としてしまった自分の影を探しにやって来ますが、見つけることができず、泣き出してしまいます。その泣き声に目を覚ますウェンディ。やがてすっかりうち解けて、「キス」の交換を交わした二人は、ジョンとマイケルと一緒に、ピーターパンの暮らす島、ネヴァーランドへ行くことにします。 ネヴァーランドの美しい森の中。ウェンディたちは迷子と友達になり、ともに暮らし始めます。初めは怖かったインディアンたちとも、ピーターパンが酋長の娘タイガー・リリーを海賊たちから救ったことをきっかけに、兄弟の契りを結びました。 楽しい日々を過ごしながらも、ウェンディはいつしかロンドンの家が恋しくなります。ピーターパンに別れを告げ家を出ていく子供たち…。しかしフック船長ら海賊たちが待ち構え、全員を捕まえてしまいます。 しかしそこにピーターパンとインディアンが登場。海賊との激しい戦いの末、ピーターパンの最後の一撃でフック船長は海へ沈み、ピーターパンたちは高らかにときの声を上げるのでした。 ピーターパンと最後の別れを惜しむ子供たち。ピーターパンは約束します。 「来年の春の大掃除の頃、またきっと迎えに行くよ!」 ウェンディはその約束を胸に秘め、いつまでもいつまでも待ち続けたのでしたが…。 1981年の初演以来、実に130万人にものぼる人々を魅了しつづけてきたブロードウェイミュージカル「ピーターパン」は、日本ミュージカル史上3位の上演を記録し、昨年遂に1000回公演を超えるという金字塔を打ち立て、16年に渡り愛されつづけてきました。主演の沖本富美子は今年で10年目、宮本裕子は3年目の登場です。 <観劇のきっかけ> 私は《郁》をある年を除き毎年、おそらく通算でも10回以上足を運んでいて、当時はまだお子様だったんですけど立派なリピーターでした。しかしある演出家氏が、青山での初演を、「お子様向けになってつまらなくなった」と評していたのを人づてに聞いていたので、郁恵ちゃんの降板後は一度も行っていませんでした。 (ただし、「青山での初演」というのは私の勘違いで、氏が行っていたのは沖本姉妹が初登場した新宿コマでのことで、現在の演出家氏と違うことが、パンフレットを見て判りました。) しかし最近になって、私が来年の「ピーターパン」上演に危機感を持たされることが何件かありました。
案の定、パンフレットによると、本拠地公演回数は歴代1位タイの少なさ(18回)で、これに対し地方公演は歴代2位の多さ(24回)。年間合計でも歴代3位の少なさ(42回)で、ここ数年の上演回数は下り坂でした。 またチケット購入後に判ったのですが、やはり沖本姉妹・青山劇場版は今年で終わり、来年からは新国立劇場オペラ劇場にて上演されることが決まっていました。主役はこれから行われるオーデションで決まる為未定で、演出家も未定です。 <感想> 私は沖本富美代さんのピーターパンをみたのですが、正直言って、彼女はピーターパン役をやる為だけにデビューして以来、ピーター一筋で生きてきたこの10年間、いったい何をしていたんでしょう、非常にがっかりしました。彼女と、先に引退している妹の美智代さんはそろって新体操の出身で、元々役者ではないから無理な話なのかも知れませんが、飛んでいるだけ・動くだけといった感じで、どうしても感情移入が出来ませんでした。ピーターが出ていないシーンは楽しめても、ピーターが出てくると、もう目をそむけたくなりました。とにかく歌詞がぜんぜん聞こえませんでしたし、心に訴えかけてこないのです。 特に残念だったのが「遥かなるメロディ」。この曲は、ウェンディにせがまれてピーターが唄う子守り歌なのですが、これを聞いてウェンディ姉弟が家に帰る決心をするという曲で、アンコールでも歌われる程大事な曲です。それだけ人の心に訴えかけなければならないはずなのに、歌詞が聞こえなければ話になりません。以前この曲を聞いた時、特に何も思っていないのに、聞いただけで何故か涙が出てくる、そんな事が良くありましたが、今回はそれがありませんでした。お芝居的にも、ここで心に引っかからなければならないのに、すーっと流れてしまった感じでした。 余談ですが、ピーターが、照明が少し暗くなった中で唄うナンバーが2つ(『ネヴァーランド』『遥かなるメロディ』)あるのですが、暗くなった途端、客席がざわついていました。どうやら大勢の親子がこの時とばかりに、「寒いから上着着なさい」などの舞台内容と全く関係ない会話をしている様でした。これは客が悪いのか、役者が悪いのか… フック船長/ダーリング氏の佐山陽規さん。年齢が若い(と思われる)ので、威厳を強調せず、バタバタ動いて「ちょっと子供にあきられかけているパパ」というイメージの二役でした。私は佐山さんという方を初めて観たのですが、何の心配も無く拝見できました。 榊原るみ・松下恵親子は「ホリプロ所属のステージママ兼女優・榊原るみが、同じホリプロ所属で売り出し中の娘・松下恵を、所属しているホリプロが主催する舞台に出してもらうついでに、話題作りで一緒に出る」という裏背景がみえみえで(だって4月頃、元バレーボール選手でその頃ホリプロ所属になった大林素子さんに、柔軟体操だかの基礎レッスンを指導してもらうくらいですから)、はなからどーでもいーやといった感じでした。しいて言えば、榊原るみさんは佐山氏の若いダーリング氏に合わせた若いお母さん。松下恵さんは初舞台で、走り去る所で素になっていたのが残念でした。 田中利花さんの舞台はいくつか観たことがあり、彼女のキャラは元々海賊向きなのを知っていましたが、わざわざ彼女を使わなくても良かったのではと思う程、使われ方が非常にもったいないと思いました。ウガンダ・トラさんは、印象に残らない程なじんでいました。八重沢真美さんは…ノーコメント! 今回演出の加藤直氏もおっしゃっていましたが、「ピーターパン」という作品自体がとてもしっかりしているので、方向性を大胆に変えられる作品です。《郁》では実体が無かった、ピーターの「影」という名の布が出てきたり、台詞も多少説明的だったりしていましたが、演出自体は、子供に媚を売るほどの子供向けではなく、むしろ子供にも良く分かる演出であったと思います。しかし、演出よりむしろ出演者の技量の問題でもあるですが、メロドラマの要素が浮き彫りになっていませんでした。 さて、演出に対して苦言を言わせていただきますと… フック船長ら海賊たちが待ち構え、全員を捕まえてしまいます。しかしそこにピーターパンとインディアンが登場。海賊との激しい戦いの末、ピーターパンの最後の一撃でフック船長は海へ沈み…ピーターは裏に隠れて海賊を殺したり、インディアンに追っ払ってもらったり、挙げ句の果てには、フック船長はあらすじにあるような最後の一撃ではなく、自分をねらっているワニにびびって行き場を失い船から落ちていってしまいました。《郁》ではこの場面は完全に殺陣で処理されていて見ごたえがあったのですが、今回はあれよあれよと海賊たちが片付いてしまうので、なんだか「あららーもう終わり?」てな感じでした。確かに、ダンサーまたは音楽家畑の海賊さん達と、元新体操の選手には酷なお願いかもりれませんが。ちなみに《郁》の海賊さんの中には、菊池剣友会の方とかその道のプロが混じっていたので…比べちゃいけませんね。 そしてその後のシーン。ウェンディ達がロンドンに帰っていくのを、ピーターはインディアン達と一緒に笑って見送っていました。「あら?ピーターはウェンディと別れたくなかったんじゃないの?ウェンディや迷子達が帰るといって家を出た後、不て寝していたのは誰でしたっけ?」私はこのシーンが今回の演出で一番違和感を感じました。 《郁》では、ピーターはロンドンの家まで送り届け、迷子達がダーリング家に無事に迎え入れられるのを屋根の上から見届け、ウェンディの「次の春の大掃除には迎えに来てね」という叫びを聞きながら帰っていきました。しかし今回の演出では、このウェンディの叫びは独り言にしかなりません。私は《郁》のほうが、二人の悲劇が深まると思うのですが… インディアンの群舞がまた残念で、“ダンサーのきれいなダンス”だけれど、クルクル回る印象しかなく、インディアンが祭りなどで踊るような“踊り”には見えませんでした。私が幼い頃に感じた、客席を圧倒するような迫力が無いのです。これも人数が少ないせいなのでしょうか。私は「アガ・ワグ」というダンスナンバーで、昔よく感動して泣いていたものですが、今回は「遥かなるメロディ」同様そう思わせてもらえず、非常に残念でした。 楽曲の丸々カットはありませんでした。むしろ《郁》ではリプライズでのダンスシーンが多かったのですが、今回はそれが無く、逆にすっきりしていました。ただし、そのリプライズの所で、ウェンディと子供たちの日常が描かれていたので、その点で「ウェンディはネヴァーランドに来てもすぐに帰った」という印象でした。 劇場やセットが違うと劇場の使い方ももちろん違い、コマには両袖に花道があり、非常に多用されていましたが、青山劇場にはもちろん無いので客席通路が使われていました。また舞台装置は《郁》と同じ妹尾河童氏によるもので、基本的に同じデザインでしたが劇場機構による変更はあり、そのあたりも演出の違いに関係していました。 一番わかりやすい例がダーリング家でのピーターの登場シーンで、《郁》では舞台正面の窓からふわっと登場するのに対し、今回は下手にある窓から入ってきて、部屋の中を、舞台を横切るように往復してから降り立ちます。 またこれも舞台の大きさと関係すると思いますが、《郁》に比べて、海賊もインディアンも迷子達も全て頭数が少なかったです。ネバーランドの動物(ゴリラ・チンパンジー・リス等)もいませんでした。また迷子達は、《郁》では子役ばかりなのに対し、今回は皆大人の女性が演じていて、迷子がすべて均等に扱われていました。この為か《郁》で子役を引っ張る為大人がやっていた「バーゲン」役そのものがなくなっていました。子役はただ一人、ウェンディの次弟マイケルで、《郁》では幼稚園児くらいの坊やか嬢っちゃまだったのに対し、今回はおそらく小学校中高学年くらいのお嬢さんでのダブルキャストでした。 コントラバス・バイオリン・クラリネットから成る「演奏隊」が出番の度に台に乗ってスーッと上手から出てくるのには笑ってしまいました。それ意外のオーケストラ伴奏は、テンポなど当時とほぼ同じででした。指揮者が変われは、どうしてもテンポなど変わるはずですが、あの音はどう考えても故・内藤恒美氏のものでした。おそらく《郁》当時のテープをそのまま使っているのでしょう。 そうそう、海賊さんは楽器を扱っていました。これは今年だけのようですね。フック船長が歌う時、演奏隊と一緒に伴奏していましたが、逆に声がちょっと聞き取りにくかったのですが、でも佐山氏の歌も演奏に負けてなく、好感が持てました。 そして最後にフライングですが、やっぱりフライング自体は良いです。涙が出ました。でもなんだか良くなかったのでした。ピーターのフライングがなんだかふらふら(グラグラ?)していて、決してフワッとは見えませんでしたし、ピーターが飛びながら幕が降りる場面があったのですが、その閉まるカーテンの下半分から見えるようにピーターが飛んでいて、床に激突するんじゃないかと思いました。全体的に、見ていてハラハラしました。子供受けしていましたけど。やはり劇場の大きさが違うせいか、全体的になんとなくダイナミックな感じがないのです。 また、フライングでとても残念なことがありました。アンコールの最後に、ピーターが客席に向かって飛んでくるのですが、さあいよいよと思った瞬間、舞台上手裾でヨイショとロープを引く人影が視界の隅に写りました。飛び始めと跳び終わる時に、おじさんの体半分がカーテンから出ていたのです。思わずそちらばかり見てしまい、私はフライングどころではありませんでした。子供に夢を売る舞台の裏が、一番夢を見れるシーンで現れてしまい、とても興醒めでした。私の席は中央上手寄りだったので、おそらく下手寄りの席ではもっと目撃している人が大勢居たと思います。劇場機構上仕方ないのかもしれませんが、こんな事は私が観た回だけにして欲しいものです。 終わり良ければ全て良しなのですから。 総体的には、「お話は良い。でも良くなかった。」です。途中で帰りたくなりましたし、拍手も出来ない程でした。やはり初演の印象が強烈に残っているのかもしれません。 でも、ピーター役がダブルキャストの宮本裕子さんならこんな想いはしなかったのかと思うと、それもまた残念でなりません。誰か、宮本版を見た方いらっしゃいませんか? |